観なかったことにしたいアニメ『時をかける少女』2006年08月20日 00時53分35秒

 まず、細田守監督のアニメ版『時をかける少女』を語る前に、すこしだけ『時をかける少女』とボクとの関わりについてご説明したいと思います。

 以前ボクはここで、ファンロードのオープニングアニメに関わっていたことがあると書きました。実はその時、ファンロード本誌の方もほんの少しだけお手伝いさせていただいたのです。
 1983年は大林宣彦監督の映画『時をかける少女』が公開された年でした。自他共に原田知世ファンを任じていたボクは、原田知世が生で見られるという言葉に誘われ、角川事務所の記者会見に帯同してファンロード誌に『少年ケニア』のケイト役を務める原田知世の記者会見レポートを発表したりしたのでした。
 自他共に認めるといっても、原田知世ファンは当時決して珍しい存在ではありませんでした。大林監督が『時かけ』に焼き付けた原田知世の美少女ぶりはまさに映像の奇蹟そのものであって、それがプロアマ問わず多くのファンの心を捉え、80年代前半の原田知世ブームを形成するに至っていたのです。
 当時の熱狂的な原田知世ファンのクリエイターといえば、ゆうきまさみ、とりみき、出渕裕、美樹本晴彦、かがみ♪あきら(敬称略)等がいました。
(当時の度を超した知世熱はここに詳しく書かれています。http://blog.kansai.com/itupatu/54
それとここ。http://bono.chips.jp/archives/2006/07/toki83.shtml
 どんな経緯だったか詳細は忘れたのですが、その年の夏、コミケで『時かけ本』が出ることになり、上記のような錚々たる執筆メンバーに混じって、光栄にもゲボコンオープニングアニメの作画監督としてボクも一ページを担当させていただくことになったのでした。
 昔話が長くなりましたが、要するにボクは当時の知世ブームにどっぷりと漬かった過去を持ち、大林監督の『時かけ』に対しては並々ならぬ愛着を持っているということを説明したかったわけであります。


 さて、そして今回のアニメ版『時かけ』です。ボクの中で『時かけ』といえば大林宣彦監督の映画であり、尾道三部作であり、松任谷由実の主題歌であり、芳山和子といえば当時15歳だった原田知世しかあり得ません。それが当時から未来永劫変わらないボクのこだわりなのはご説明した通りです。
 たとえ原作者である筒井康隆が「ようやく二代目の『時かけ』ができた」と賛辞を送ろうとも、ボクはミニスカートを穿いた貞本義行氏の手による“今どき”の『時かけ』ヒロインには全く関心が湧かなかったし、誰に誘われたとしても劇場に足を運ぶ気はさらさらありませんでした。
 パンツが見えないほうが不自然なほど、短い制服のスカートをひらひらさせてスクリーンを跳ね回る(らしい)ヒロイン像は、原田知世の『時かけ』の思い出を大切にしたいボクにとっては断じて『時かけ』のヒロインとは認めることができない。そんな『時かけ』の平成版リメイクなんて見たくもない——そう思っていたのでした。
 そう。あのサイトを目にするまでは……


 あのサイトとは、冒頭で長々と説明した知世ブームの立役者の一人でもあった美樹本晴彦氏のブログでした(http://www.mikimotoharuhiko.com/photosh.php?page=4)。
 大林監督の『時かけ』を愛し、魂まで原田知世の虜になった同士(とボクが勝手に思っている)美樹本晴彦氏が、なんと細田守監督のアニメ版『時をかける少女』を「お薦めですっ!!」と賞賛されているではないですか。これはもしかしたらとんでもない勘違いをしていたのではないか。ボクはその時、これまでのアニメ版リメイクに冷淡だった自分の気持ちが既にグラついていることに気がついたのでした。
——ということで早速、とある日曜日。売れない漫画家・八雲ひろしと待ち合わせして、テアトル新宿の初回に並んだのでした。
 初回は入場時もそれほど混雑せず、客の入りは席の背後に立ち見が二十人ほど出来る程度。インターネットで調べたほどではないにせよ、まずまずの入りでした。

 で、映画を見た感想はどうか。
 連れが80点以上という高評価を上げたのに対し、ボクの評価は10点でした。何故なら、ボクにとっては観なかったことにしたい程の許せない出来だったからです。
 ボクの評価基準は、大林版『時かけ』にかなわないのは仕方ないとしても、平成の世に敢えてリメイクを——それもアニメで『時かけ』をリメイクするのだから、スタッフにそれだけの覚悟と力量が伴っていないと困る。お手並み拝見といこう。ただこの一点でした。
 ところが、ボクの期待は見事に裏切られました。どうして今、アニメで『時かけ』をリメイクする必要があったのか。とうとう最後まで、その答えを映画から見いだすことが出来なかったのでした。どれだけ許せなかったかというと、クライマックスでヒロインの真琴が号泣(ラノベ作家の乙一氏によると“のび太泣き”をしているらしい)するシーンがあるのですが、真琴が映っているスクリーンに向かって、飲んでいたアイスティーの紙コップを投げ付け席を立ちたい誘惑を必死で堪えなければならなかった程、といえばご理解いただけるでしょうか。これほどこの作品に関わったスタッフに対し、呪いに似た怒りを抱いたのは『劇場版仮○ラ○ダー5○5 パ○ダ○ス・ロ○ト』以来久しぶりで、我ながら呆れる程でした。

 調べたところによると、監督の細田守氏は、自ら企画を持ち込んだほど『時かけ』に対する意気込みには相当なものがあったとのこと。それに呼応してか、上映館が少ないにもかかわらず公開後ネット上での口コミ評も、非常に高評価でした。が、残念ながらボクには細田監督の意気込みは伝わらなかったようです。
 ボクが納得のいかなかった点をいくつか挙げて、個々に説明してみます。
・季節感が希薄
・違和感ありすぎの高校生ライフ
・唐突で不可解な恋愛感情
・お脳の弱いヒロイン像
・魔女叔母さん、あなた何者?
・アニメでなければならない必然性がない
・嘘の約束
・中途半端な舞台設定

1)季節感が希薄
 この映画は多分、夏休みを直前に控えソワソワした学期末を描いた作品だと思いました。何故ボクが夏休みの直前だ、と判断したか。それは映像や皮膚感覚でそういう情報を受けたのではなく、劇中で授業がまだ行われていたという事実と、人物達がキャッチボールをしている無人の哲学堂公園グラウンドで、蝉の声が聞こえていたことから類推しただけの話です。

 ジブリやその他の映像作家の努力の成果で、今やアニメは季節感はもとより吹き抜ける風や空気が運ぶ様々な匂いなど、目に見えない事物すら表現することが可能になったとボクは思っています。アニメの映像表現は、CGを取り入れることにより無限の表現手段を手にしたようにすら見える。現在のアニメ作家は、本人の望むまま詩人にも音楽家にもなれるのです。
 そうした視野からこの映画を見通した時、そのあまりにステロタイプ的映像表現にまず落胆してしまいました。蝉の声という効果音がなければ季節がいつか分からない程、夏の暑苦しさがまるで表現されていない。炎天下のグラウンドでキャッチボールしているのに汗を拭う仕草すら見せず(再確認したわけではないので、もし拭うカットがあったらごめんなさい)、テストを受けている教室にエアコンが効いてるのか自然の換気に頼っているのかそんな演出も一切無し。夏ならば、教室の窓で開いている窓もあれば閉まっている窓もあるなんてことはありえないし、誰もいない夏の理科準備室のドアを開ければ、真琴は蒸せるような室内の気温に辟易する筈です。そうした東京だったら当たり前の、夏の演出がまるでなされていないのです。現在のアニメの演出レヴェルからいって、ちょっとありえないと思いました。
 僕らは宮崎駿というアニメの巨人の作品を既に観てしまったので、繊細なディティールの積み重ねがアニメに実写さながらのリアリティを与えることを知っています。若いながらも評価が高く、一時は東映動画からジブリに出向して宮崎駿の薫陶を受けた細田監督であれば、そうした宮崎駿の作劇手法を知らないはずがないと思うのですが。

2)違和感ありすぎの高校生ライフ
 ともかく違和感ありました。大学のキャンパスのような広大な敷地と、全教室にエアコンが完備されているかのような窓の開かない立派な校舎。そして、まるで大学生のサークル活動のような自由な時間を、オープンな男女交際で過ごす登場人物達。どれをとっても、ボクの記憶の中の惨めな高校生活とは似ても似つかないものがあります。
 どう贔屓目に見ても、真琴をとりまく二人の男子学生は大人び過ぎ。等身の長い貞本キャラが大人びて見えるということもあるのでしょうが、ボクにはこのサークル活動じみた三人の関係に最後まで馴染めませんでした。
 うれし恥ずかしい男女共学の高校生活ですよ。男子は男子でくだらないことで盛り上がったりプロレスごっこが楽しい年代。女子は女子同士で手を繋いでトイレへ行ったり、お弁当を一緒に食べたり、いつでもくっついていて、のべつ幕無しに喋っているのが好きなお年頃ではありませんでしたか? なのにこの映画のヒロインは、同性のクラスメートとは食事を一緒に摂らず、群れず、大人びた二人の男子学生とばかりつるんでいる。同じ女子の友達とはどうやってコミュニケーションをとっているのか、見ているこちらが心配になってしまうほどです。
 授業が終わると、真琴達は一目散にグラウンドに向かい、男女入り交じり三人で睦まじく野球ゴッコに興じる。今の高校生にはこのような日常の方が、親近感を抱かれるのでしょうか? 40年前の原作、あるいは20年前に公開された大林映画の生徒達と現在では、学生生活そのものが様変わりしているのは当然。それを現代の高校生の日常に置き換えたということなのかもしれませんが、それにしてもボクの感性からいわせてもらえばぶっとび過ぎている。一体どこの国の高校生なのだろうかと疑ってしまうのです。

3)唐突で不可解な恋愛感情
 一緒に観に行った連れとも議論になったのですが、ヒロインの心の移り変わりにボクは納得いきませんでした。原作小説では、中学生の芳山和子が未来人ケン・ソゴルに恋を告白され、未来の中学生はなんてマセているのだろうと戸惑いながらも、自分も少年に惹かれていたことに気づくという流れでした。映画版の場合は、トリオでいながら少しずつ三角関係のバランスが崩れ始めた時期を克明に描写し、和子のケン・ソゴルに対する淡い好意に「そうした思い出の数々は自分が、和子と吾朗との間にあったものを剽窃したのだ」と明かし、本来和子の好意は吾朗に向けられるべきなのだと諭すのです。
 ところがアニメ版はそのどちらでもありません。映画版のようにはじめから仲良しトリオの構図を持っていながら三角関係の恋は全く育たず、それでありながら原作小説のようにケン・ソゴルが正体を明かした途端に彼のことが好きになるという唐突な展開となっているのです。
 原作小説は、恋を知らない中学生の“初恋”を描いているから、そうした唐突ともいえる恋心もOKだと思うのです。映画版では物語の進捗に従って吾朗より深町に心が傾いていく和子の戸惑いが描かれていたからこれもOK。
 ですがアニメ版の場合、仲良しトリオの関係を続けていた真琴が魔女叔母さんの芳山和子から「どちらが好きなの? 早く決めちゃいなさい」と焚きつけられながらも“いつまでも仲良しトリオのままでいたいから”同じくらい好意を抱いている二人とそういうムードになることから極力逃げ回ります。二人からそういう話を切り出されそうになると避けて会わないようにまでしていたにも関わらず、正体が未来人と知った途端にケン・ソゴルへの恋心が全開してしまうのです。ボクにとっては「そりゃねーだろう?」なのであります。
 連れの見解はこうです。真琴が恋愛感情に気付く直前までは、恋すら知らないいわばコドモだったのだ。だから真琴は自分の感情に気付いた瞬間、大人への道を一歩成長したということになるのだ、と。
 ボクは別に、真琴がケン・ソゴルを好きになるのがイカン、といっているのではありません。連れの見解も正しいと思う。でも中三の小娘の初恋じゃないのですから、二人の男性のうちの、片方を選ぶに至ったその心の化学変化というか、移ろう乙女心を丹念に描写して欲しかった。今のストーリーでは、ボクはいつまでもケン・ソゴルを選んだ真琴の判断に同意できないのです。

 と、ここまで書いて劇場の話に戻ります。
「こんな少女像ってありかよ? こんな唐突な恋の始まりで世の女性達が納得するわけない!」
 映画が終わり劇場に照明が灯った瞬間に感じたのは、まずそんな思いでした。沸き上がる怒りを持て余しながら、ボクが出口への階段を上っていたと思って下さい。
 劇場の出口からホワイエに至る階段は、二回目の上映を待つ人波でひしめいており、思うように歩くのが困難な状態でした。そんな朝のラッシュのような状況で、前を歩いていた女性三人組の会話がボクの耳に飛び込んできたのです。
 その女性達は、口々に「泣けた〜」といっていました。そうです——女性達はあの映画を見て“泣けた”のです。映画館の入りと女性三人組の感想ではっきりしたことは、映画を楽しめなかったボクの方がどうも少数派だったということです。ネットでの高評価と同様、女性三人組や連れを含んだ殆どの人が圧倒的にアニメ版「時かけ」を支持している、ということがどう客観的に見ても明らかとなってきました。連れは「泣ける映画といい映画は違うから」と励ましてくれましたが……
 さて、挫けずに続けます(爆)
 
4)お脳の弱いヒロイン像と、“魔女”叔母さん、あなた何者?
 もう一つヒロインに感情移入できなかったのは、原作や大林版の芳山和子と比べ、今度の真琴はよくいえば無邪気、悪くいえば箸にも棒にもかからないお莫迦な娘である、ということ。
 確かに、ケチな自分の欲望を満たすために超能力を場当たり的に使う真琴は、かつてない画期的な『時かけ』のヒロイン像かもしれない。が、それはあえて『時かけ』で試みる必要もなかったヒロイン像にも思えるのです。
 やはりヒロインは超能力の行使には臆病であって欲しいし、超能力の行使を決意する時が最大のクライマックスであって欲しい。これは大林映画の『時かけ』が特別な存在であるボクだけの感傷なのかもしれません。

 魔女叔母さんこと芳山和子は、原作小説の芳山和子本人ということになっています。が、実はアニメでは“魔女”と呼ばれる理由を明らかにしません。原作や大林版を観た人なら、独身を貫いていまだ会えない初恋の人を待ちつづけている、魔女みたいに浮き世離れした不思議な人——と脳内補完するところですけども。
 制作側に、古典作品としての『時かけ』を若い人に紹介したいという意図があるのなら、“魔女”と呼ばれる芳山和子の種明かしをするべきだったと思います(劇中で芳山和子の古い写真として文庫新装版のカバー絵が一瞬映るのですが、そのメッセージの意味が理解出来るのは一部のオタクだけでしょう)。

5)アニメでなければならない必然性がない
 結局、このアニメは誰に観てもらいたかったのでしょうか。『時かけ』を知らない若い人を対象にしたのでしょうか。それとも大林映画に涙したかつての少年少女に観てもらいたかった? あるいは貞本キャラ目当てのオタクや腐女子を狙った?
 ボクは、昭和の乙女を平成のミニスカ高校生に置き換えて新しい解釈の『時かけ』を送り出したという意味では、若い人をターゲットにしているようにも思えました。がこれまで書いてきたように、あまり『時かけ』を知らない人に優しい作りをこのアニメはしていないし、劇場は三十代以上の観客で占められていたことからもそのような意図がないのは明らか。
 だとしたら、答えは一つ。大林映画に涙したかつての少年少女に新解釈の『時かけ』を観てもらいたかった——これです。
 昭和のノスタルジックな『時かけ』であれば、大林版をみればよい。もし大林版『時かけ』に憧れ、いずれこんな作品を自ら作ってみたいという希望をもっている有能なクリエイターが細田監督だったとして、今『時かけ』を映画化するという千載一遇のチャンスに恵まれたその有能なクリエイターが、
「今時のイケイケ高校生がタイムリープの超能力を得たら、どんなことに使うか」と考えたのは素晴らしい着想だと思います。
 しかし、ボクにはそれだけでは不満です。演出、時を駆けるシーン、キャラクター達の受け答えと行動、そして季節感——そのどれをとってもこのリメイク作が、アニメで制作されなければならない理由になっていないのです。繰り返しになりますが、貞本キャラのアニメの方が実写よりも商品価値があると判断したに違いない大人の理屈以外に、『時かけ』がアニメでリメイクされなければならない必然性が見いだせませんでした。それはもしかすると、最近のアニメの傾向である“リアル”なアニメキャラクター、CGで可能になった実写さながらの演出のせいかもしれません。見たところ、細田監督はやはり“リアル”志向のアニメ作家のように見受けられたからです(『劇場版デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム』『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』『ONE PIECE オマツリ男爵と秘密の島』など全て未見ですので、見当違いだったらごめんなさい)。

6)嘘の約束
 これまでは、なるべくネタバレを避けて過去の作品を例にとって書いてきましたが、ここから下はクライマックスのネタバレシーンを書きます。ご覧になる予定の方は読まない方がいいでしょう。




 無駄に浪費して超能力が打ち止めになってしまった真琴に代わり、千昭(ケン・ソゴル)は自分の最後の能力を使用して過去に戻り、功介(吾朗)の命を救います。
 自分の世界に戻れなくなった千昭は、この時代の人間に未来の話をするという時間法に抵触する禁を犯したため、もう真琴とは会えなくなったと告げ、身を隠すことになります。
 千昭がいなくなったことで(多分)自分が如何に千昭を大切に思っていたかを知り、浅はかな自分の行動の数々を悔やんでいた時、千昭が時間を戻したために超能力が一回分だけ巻き戻されたことを真琴は発見します。あれ? それってタイムパラドックス???
 全ての間違いを修正し、千昭が時間法を違反しないように世界を整えた真琴は、友人の命を救うために自分の最後の能力を使い切る必要がなくなり、晴れて未来に帰れるようになった千昭と再会し、夕日の荒川河川敷で別れを告げます。千昭が去った後、(多分)自分のこの切ない想いの正体は恋だと知った真琴は、耐えられずに“のび太泣き”をしますが、千昭は真琴に最後の言葉を告げるために、まだ未来には帰っていませんでした。

——未来で待ってる。
——うん、すぐ行く。走って行く。

 だ〜〜〜ッ! 違うだろ! 千昭。おまえ何百年未来の人間なんだよ? 真琴が何回生まれ変わっても行けない世界じゃないかよ! おまえ自分の時代の西暦も、ヒントすら真琴に話してないじゃんかよ。
——未来で待ってる。なんて大嘘つき! 千昭ってこんな嘘つきの人でなしなんですよ。真琴も真琴だよ。いったいどうやって千昭に会いに行くんだよ? 走れば追いつくってか。お人好しにも程があるよ(^^;

 原作と大林映画ではこうでした。深町が未来に戻るときは、関わっていた人間全てから記憶を消さなければならない。和子は深町に、もう会えないの? と訊きます。多分会えると思うけど、きっと君には僕のことが分からないだろう。と少年は寂しげに告げます。が、和子は断言します。自分は絶対にその人が“彼”だと見つけてみせる、と。なんというロマンチックな約束なのでしょう。なんという純粋な愛の形でしょう。これこそが、『時かけ』のエッセンスであり、外してはならないクライマックスなのです。ケン・ソゴル役の千昭が真琴を謀った時点で、この映画のボクの評価は地に堕ちたのです。

7)中途半端な舞台設定
 発売されているムックによると、映画のロケハン地は以下の地域だそうです。
・豊島区高田の富士見坂を下って、神田川にかかる面影橋付近にいたる途中の分かれ道
・新宿区中井、目白、上野、谷中、荒川、千葉、幕張、荻窪などの住宅地
・哲学堂公園の野球場
・台東区から千葉方面に向かう京成線

 アニメの場合は、写真を直接使用したり背景に名所旧跡を描かない限り、厳密にはその世界は架空の舞台となります。実はボクも自主映画を作っていた時、中井を舞台に選んだことがあります。中井界隈は高級住宅地でもあり、東京にしては街並みが非常に美しいからです。ボクは中央線沿線に住んでいましたので、上の地域には土地勘があります。が映画を観た限りその土地勘が働かなかったのは、舞台が豊島区、中野区、練馬区、荒川区ととても自転車では走り通せない範囲に跨っていたからかもしれません。ボクは素人なので無知を嗤われるかも知れませんが、映像作家が一つの作品——特にアニメを作る時、好んでただ都合のいい場所を継ぎ接ぎした舞台を選ぶものなのでしょうか。尾道三部作を世に問うた大林監督はそういう事はしなかった(後で調べたら、時かけの不気味な時計屋のシーンは竹原市で撮影していることが判明しました。訂正します)し、ボクも創作上の禁止事項にしています。自分で一旦舞台を決めたら、その範囲でキャラクターを動かす。制約はありますが、それがキャラクターの行動原理にリアリティを生むと信じていますので。

 最後に余計な一言。監督の細田守氏の故郷が、ボクの両親と同じ富山県だったことを知ったのは映画を観た後でした。
 監督はインタビューでも、「大林監督が故郷の尾道を舞台にされたように、僕の故郷である富山か金沢を舞台にしたいなぁ、と思っていた」と語っておられたようです。
 もしこのアニメが立山連峰を背にし、陰鬱だけども自然に富んだ北陸の美しい原風景を舞台にして、なおかつ現代でもなお失われない日本人の美徳を残す少女像を映像化していたら、ボクの印象も少しは変わっていたのではないかと残念に思っています(別に、日本人の美徳を残した純粋な少女が富山県にしか居ないと言っている訳ではありませんので念のため)。

コメント

_ 東京丈 ― 2006年08月24日 06時09分35秒

やっとボクと同じ「なぜアニメでやる必要があったのか」という感想をアップしているサイトをみつけました。

http://blog.goo.ne.jp/kanime_korea/e/1d1d1d5ef7156b036780835090c070e3

_ 東京丈 ― 2006年08月31日 07時12分43秒

賛否両論、あるある〜(^^)

http://www.eigaseikatu.com/imp/15451/

_ anonymous ― 2007年11月08日 19時05分28秒

私にはサッパリ理解できなかったので、内容にはノーコメント。
感動も失望もサッパリです。「どうでもいい」という意味では駄作でした。

>パンツが見えないほうが不自然なほど、短い制服のスカートをひらひらさせてスクリーンを跳ね回る

今時の(東京の)女子高生は、本当にこんな格好をしてるんですよ。初めて見た時は驚きました。

>千昭。おまえ何百年未来の人間なんだよ? 
サイレントメビウスの方だと30年くらいずれてた(男の方が過去で年下)だけなんだけど、それでも待つのは大変だったでしょう。過去においては自分の方が「ちょっと年下」だったのが、未来に戻ると30歳ほど年上のオジサンになってしまっているのだから。

_ 東京丈 ― 2007年11月09日 05時16分48秒

>私にはサッパリ理解できなかったので、内容にはノーコメント。

 その後、監督作品のオマツリ男爵とかデジモンとかおじゃ魔女を見てみたのですが、時かけは細田監督のこれまで実現した映像実験の集大成という印象を受けました。二人のイケメン同級生がサンジとゾロに似ているところとか。
 ともかく世間の評価が殆ど一方に偏っているのがへそまがりからすると気持ち悪かったということもあるかな。

_ ・・・ ― 2008年07月20日 01時26分55秒

あなたが単なる映画のヒロインだった原田知世ヲタだからそう思うだけでしょう。
アニメ映画も普通にこれはこれで名作だと思いますよ。
この作品は実写も何回もされているから○○が時をかける少女じゃないとありえない!というあなたみたいな人多いですよね。
まあ私は実写映画版の舞台の近所に住んでいるし大林さんが好き
という事で原田知世さん主演の映画は気にいっていますが

_ (未記入) ― 2008年07月20日 04時57分27秒

いつまでも過去にしがみついているヲタクの言動としか思えない感想でした。
まぁ、'83の時かけから20年後の設定と謳っている時点で
そもそも当時と同じわけないのが理解出来ますよね。

時かけで検索してみれば、様々な解釈をされた意見が見られますので、
アニメ版で伝えたかった事の真意が見えてきますよ。
そして真琴を今回主人公にした意図も。
後者に関しては、細田氏のインタビューも多数掲載されてますしね。

_ 今時の高校生 ― 2008年07月21日 12時14分06秒

私にはあまり違和感なく感じた高校生活でした。
私も進学校に通っているので
確かに医学部志望があんなに遊ぶもんかなーとも思いましたが、
まあ私の周りにも、遊んでいながらも頭のいい子はたくさんいるわけで。
あなたのおっしゃっているような高校生活こそ、
私にはなじみのない感じです・・・
いつの話だ、と。

その点でこの映画は 今 を描ききったと思います。
だからこそ私も含め女性たちは共感し、泣けたのだと思います。

恋愛についても、始まりは突然ということは理解できますし
千昭が嘘をついた、という解釈にいたっては

本気でそう思ったのですか・・・?

という気持ちがいたしました。

長文 駄文 失礼いたしました。

_ 東京丈 ― 2008年07月24日 05時47分49秒

 二年も前の記事にコメントがついたのは、最近テレビ放映されたお陰でしょうか。
 ともあれ昔の感想なので、あえて繰り返すことはいたしません。が代わりといっては何ですが、下のサイトには公開当時からのさまざまな感想が残されていますので、ご参照頂ければさまざまな意見があったことがわかります。絶賛の声、批判の嵐。それも、名作といわれる作品の宿命でしょうね。

http://www.eigaseikatu.com/title/15451/

_ 化猫 ― 2008年08月04日 13時22分45秒

未来で待ってるのは「絵」でしょう。

_ 東京丈 ― 2008年08月05日 05時42分37秒

ええっ! それは新説ですね。

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